第8話 時間犯罪     作・小林隆雄
 正月早々ぶっそうな話で申し訳ないが、君はこういう話を知っているか? 「タイムマシンで時間を溯り、自分が生まれる前の親を殺したらどうなるか」
 答は、「自分が生まれる前の親を殺せば、自分は生まれてこない。すなわち過去に溯って親を殺すことができない」……これが、SFの世界では有名なタイム・パラドックスである。
 タイムマシンを使って過去を改変することを、「時間犯罪」という。実は私は、その時間犯罪者なのだ。え? タイムマシンが本当にあるのかって? それだけは聞かないでくれ。絶対秘密なのだから。
 とにかくタイムマシンのおかげで、私はやっと老後の安心を得ることができたのだ。
 私は45歳。これまである個人事務所で働き続け、その後独立した。つい先頃までは毎年送られてくる国民年金の納付書なんて、封も切らずに放っておいた。他のいろんなことは抜け目なく押さえてきたつもりなのに、なぜか年金というやつには関心が持てなかったのだ。
 ところが、ある高齢者施設にボランティアにでかけるようになって私の考えは一変した。まずい! あの放っておいた国民年金、どうにかしなければ!
 そこで思いついたのが、タイムマシンによる過去の改変だったというわけだ。
 60歳からの任意加入期間と遡及して納付できる2年間を加えても、22年にしかならない。受給資格獲得まであと3年の不足……。だからタイムマシンを使って、過去の未納分を納付してしまおうというわけだ。
 実際に作戦を開始してみると、意外に手間がかかることがわかった。まず、役所から郵送されてきた納付書を手に入れなければならない。そんな日付は覚えているわけがないから、該当する年の数日間を、当たりをつけて探索しなければならない。だが、それさえわかればあとは簡単だった。もともと自分の家だから、鍵は同じ、状差しも同じ場所、生活時間もわかっている。娘が受験勉強で夜更かししていた年だけは、慎重に忍び込む時間を調整した。
 まず、3年前から5年前までは、すんなりと実行できた。去年とおととしは現実時間で追納してしまったから、これで私の「25年」は一応確保できたことになる。もちろん未来を覗けば、自分が安らかな老後を送っているかどうかがすぐわかるのだが、もしとんでもない人生になっていたら、今の現実時間で生きていくのさえイヤになってしまうだろう? だから、ムラムラッとするのを押さえて未来は覗かないことにした。
 ところでこいつは「時間犯罪」だから、多少は気が咎めるが、これを罰する条文は刑法の中にはない。「公正証書原本不実記載罪」? しかし現実に、その過去の日付で納付しているわけだし、「窃盗罪」? 自分あての納付書を自分が使ったわけだし……。まあいいか、私はもともと刑事法には弱いんだ。
 さてこうなると、人間っていうのは欲がでてくるものだ。25年の資格期間では、受給できる老齢基礎年金は満額の62.5%。月額にして4万円ちょっとだ。ようし、40年の満額にしてやるぞ!
 こうして私は、1年、また1年と過去に溯り、過去の改変を繰り返していった。
 なつかしいなあ、過去にのぼればのぼるほど、感傷的になってくる。つい街の中をブラブラと歩きたくもなる。いやいや、これ以上の危険を冒すべきではない。SF小説ならとっくにタイム・パトロールが出現して、私はとっつかまって時間牢獄に入れられ、私が改変した過去はあとかたもなく修復されてしまうことになっている。だから、自宅から納付書を持ち出して、銀行に行くだけにしよう。
 最初のときはひどく緊張してしまったが、今ではもうすっかり慣れた足取りで窓口に近づき、納付書と振り込み用の伝票、それに保険料をサッと差し出す。
 おや? 様子がおかしいぞ、行員は怪訝な顔で私を見つめて何か言いかけ、思い直してうしろのデスクの男性とヒソヒソ話をしている。その男性が近付いて、「お客様、このお札はどこで入手なさいましたか?」……険しい目つきをしている!
 わけがわからず、カウンターの内側を見回すと、行員たちが手にしている紙幣は……。
 しまった! この昭和56年の1万円札は、まだ聖徳太子だったのか!

(月報司法書士 1996年1月号掲載)
  ひとくちメモ
 「滑走路が見える丘で」の一口メモでも、老齢基礎年金(=国民年金。すべての公的年金の土台部分)の受給資格が得られる加入期間要件は、「25年」であることを述べました。
 国民年金は、すべての国民が20歳から60歳に達するまでの40年間加入する制度で、そのうち25年間の保険料納付期間があれば、65歳からの老齢基礎年金受給資格が得られます。後で述べる保険料の免除を受けた期間や、一定の条件で合算される期間も、受給資格取得の期間に含まれるのですが、まずは原則の「25年」という数字をぜひ覚えておいていただきたいと思います。
 サラリーマンや公務員は年金保険料が天引きされるので、あまり自分の年金加入年数を意識しないようですが、国民年金第1号被保険者、つまり自営・自由業種・自営業の被扶養配偶者・学生などは、自分で保険料を納付しなければならない人たちですから、「未納」にならないように日頃から意識しておくことが大切になってきます。
 ところで国民年金は上記の原則の他に、60歳から65歳まで「任意加入」できる期間があります。ストーリーの「45歳の私」は、60歳に達するまでの15年間に任意加入できる5年を加えてみましたが、これで20年。過去の未納分は2年を超えると時効になってしまうので、遡及納付できるのは2年分、これで合計22年、あと3年足りない! という計算をしたわけです。老齢基礎年金の受給資格が得られないと、過去にサラリーマンだった人は当時の厚生年金まで無にしてしまうことになります。
 実はこのストーリーを書いた後、70歳まで任意加入できる制度が設けられました。これは、どうやりくりしても「65歳まで任意加入しても25年に1〜5年足りない人」に限る、一種の救済措置として設けられたものです。47歳まで全く納付してこなかった方も、2年分の遡及納付を加えて間に合います。お心当たりの方はすぐに社会保険事務所に相談してみてください。
 どうしても保険料が納付できなくなってしまった場合は、未納にせず、免除申請することをお勧めします。1年単位ですが、全免除になる場合と半額免除なる場合があります。免除が適用された期間は資格期間に算入されますし、免除期間でも国庫負担分の受給は保障されます。
 「年金は信用できない、『世代間扶養』は役に立たない」などと、ワイドショーのコメンテーターが簡単に口にしたりしますが、軽々しいと思います。公的年金制度は改良の余地はあるがとても優れた社会保障システムだと思っています。それがうまく機能しなかったり、過度の少子化が進行したり、不公平感・不信感が強まったりするような社会状況の方に、主な問題があるのではないでしょうか。成熟した本当の民主主義の社会なら、いくつかのハードルは必ず越えていけると期待しているのですが……。